私は聞きかじって読んだ程度の知識しかない。講習すら受けていないw
でも、星座占いなんかより月別占いなんかより血液型占いなんかよりも、
実践的なのは気に入っている。
ただ、すべてをこのメガネでみることは、まだ受け入れがたい。
というか、そもそも占いじゃないしねwここが誤解されやすいからかな。
エニアは、占いではないので、あの人はこうなら、タイプ○かもね~とは簡単には
言い切れない。そして、こういう占い的なところが、私には苦手なのだ。
占いじゃないのに、大多数はそう信じている。
ただの統計学にすぎないのに。
だから、予測などできるはずはない。
できるのは、ただ自分に対しての対応だけだ。
エニアで大事なのは、たぶん動機だろう。
まぁ専門家ではないので、そのあたりはぐぐってほしい。
仮に、同じ体験を幼少の頃にしたとする。
でも、タイプの違いによって、注目する場所というか
注目する視点が違う。対処法も違う。
それが根本的なタイプの違いなのだろうけど。
たとえば、クリスマス。
ごくふつーに祝っていた家庭の記憶のある人間と、そうじゃない人間がいる。
私は前者で彼は後者だ。
でも、私はキリスト教徒ではないし、彼はクリスチャンの学校にいたことが
ある、という程度の二人とも平凡な日本人だ。
もしも、二人ともその幼少時にクリスマスは悲しいものと思えるくらいの
祝えない・怒られた・祝うどころか何もない。。。そんな記憶を持ってしまったら
そこから先は、自分を守るためになんでもありの世界になる。
だから、記憶は大事なんだと思う。けど、その記憶は、所詮本人が編集したものに
過ぎないのも事実だ。
たとえば。
私の中で、ひな祭りも成人式も、祝ってもらえなかった悲しい記憶の分類だ。
クリスマスは人並みだったかな。
でも、よく考えると、それは自分の記憶の中のでっちあげによって
ある意味成り立っている・・・のかもしれない。
記憶は、所有者を守るために、平気ででっちあげをするのだw
だから、何が正確なのかは、今となっては自分でもわからない。
本当の私はひな祭りもどうでもいいし、成人式では、着物を作るなんて
大変なことをしてもらいたくなくて自分で断ったのだ。
それでも、「無理してでも、本人がいやがってでも、親が自分たちのために
着物を用意しちゃうのでは?」なんて、妄想がそこに加わっただけのことだ。
それをつきつめていくと、クリスマスもそれと同じ。
イベントという面では、決して否定はしない。
でも、自分本来、という意味では、特別にプレゼントなど
欲しいとも思っていない。
特別なイルミもディナーも本音はどうでもいい、だった。
私が、本来望んでいたのは、特別な状況の人々と一緒の行動をすることじゃなく
特別じゃない普段の人々に紛れたい、という欲求だった。
彼個人に関して言えば、望んでいるのは、たったひとつだけよ、といいたいだけだ。
自分が望んでいるものがこんなにシンプルだったなんて、一つの気づきだった。
問題になるのは、その動機だ。
同じ経験をしても、同じ感想を持つことがないように、人間も違う感想を
それぞれ持って成長する。
仮に家庭が悲しく隠したいほど恥ずかしいものであった場合
私の知っている人間は、Aは努力して自分で希望している家庭を築こうとし
Bは拒絶して、(希望していた)家庭など「くだらない」、と否定した。
もちろん今Aは既婚者で、Bは未婚者だ。
でも、どちらの人生が正しいということはない。
与えられた体験に対して、どう反応したか、それだけのことだ。
わかっているつもりでのおしつけ。
親切をバックにつけたおせっかい。
ほとんどは、自分も相手と同じはず、という間違った認識からくる。
というわけで、今年も、親戚一同様には、直接のご挨拶もせず
大変失礼なことをしているのでしょうけれど、こういう事情でありますので
例年程度のご挨拶しかできませんがどうぞお許しを。
・・・と本当は直接言いたいw
でも、星座占いなんかより月別占いなんかより血液型占いなんかよりも、
実践的なのは気に入っている。
ただ、すべてをこのメガネでみることは、まだ受け入れがたい。
というか、そもそも占いじゃないしねwここが誤解されやすいからかな。
エニアは、占いではないので、あの人はこうなら、タイプ○かもね~とは簡単には
言い切れない。そして、こういう占い的なところが、私には苦手なのだ。
占いじゃないのに、大多数はそう信じている。
ただの統計学にすぎないのに。
だから、予測などできるはずはない。
できるのは、ただ自分に対しての対応だけだ。
エニアで大事なのは、たぶん動機だろう。
まぁ専門家ではないので、そのあたりはぐぐってほしい。
仮に、同じ体験を幼少の頃にしたとする。
でも、タイプの違いによって、注目する場所というか
注目する視点が違う。対処法も違う。
それが根本的なタイプの違いなのだろうけど。
たとえば、クリスマス。
ごくふつーに祝っていた家庭の記憶のある人間と、そうじゃない人間がいる。
私は前者で彼は後者だ。
でも、私はキリスト教徒ではないし、彼はクリスチャンの学校にいたことが
ある、という程度の二人とも平凡な日本人だ。
もしも、二人ともその幼少時にクリスマスは悲しいものと思えるくらいの
祝えない・怒られた・祝うどころか何もない。。。そんな記憶を持ってしまったら
そこから先は、自分を守るためになんでもありの世界になる。
だから、記憶は大事なんだと思う。けど、その記憶は、所詮本人が編集したものに
過ぎないのも事実だ。
たとえば。
私の中で、ひな祭りも成人式も、祝ってもらえなかった悲しい記憶の分類だ。
クリスマスは人並みだったかな。
でも、よく考えると、それは自分の記憶の中のでっちあげによって
ある意味成り立っている・・・のかもしれない。
記憶は、所有者を守るために、平気ででっちあげをするのだw
だから、何が正確なのかは、今となっては自分でもわからない。
本当の私はひな祭りもどうでもいいし、成人式では、着物を作るなんて
大変なことをしてもらいたくなくて自分で断ったのだ。
それでも、「無理してでも、本人がいやがってでも、親が自分たちのために
着物を用意しちゃうのでは?」なんて、妄想がそこに加わっただけのことだ。
それをつきつめていくと、クリスマスもそれと同じ。
イベントという面では、決して否定はしない。
でも、自分本来、という意味では、特別にプレゼントなど
欲しいとも思っていない。
特別なイルミもディナーも本音はどうでもいい、だった。
私が、本来望んでいたのは、特別な状況の人々と一緒の行動をすることじゃなく
特別じゃない普段の人々に紛れたい、という欲求だった。
彼個人に関して言えば、望んでいるのは、たったひとつだけよ、といいたいだけだ。
自分が望んでいるものがこんなにシンプルだったなんて、一つの気づきだった。
問題になるのは、その動機だ。
同じ経験をしても、同じ感想を持つことがないように、人間も違う感想を
それぞれ持って成長する。
仮に家庭が悲しく隠したいほど恥ずかしいものであった場合
私の知っている人間は、Aは努力して自分で希望している家庭を築こうとし
Bは拒絶して、(希望していた)家庭など「くだらない」、と否定した。
もちろん今Aは既婚者で、Bは未婚者だ。
でも、どちらの人生が正しいということはない。
与えられた体験に対して、どう反応したか、それだけのことだ。
わかっているつもりでのおしつけ。
親切をバックにつけたおせっかい。
ほとんどは、自分も相手と同じはず、という間違った認識からくる。
というわけで、今年も、親戚一同様には、直接のご挨拶もせず
大変失礼なことをしているのでしょうけれど、こういう事情でありますので
例年程度のご挨拶しかできませんがどうぞお許しを。
・・・と本当は直接言いたいw
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