お寺の人への偏見が変わった
2009年3月20日 日常
今日は、三河島事故のあたりに行った。
事故の詳細はウィキで調べてくださいな。
実は、今日、出かける前に、彼は
「ちょっと寄りたいところがあるんだ」と言っていた。
でも、そのお寺のことじゃなく、事故現場のことだったはずだ。
なのに、なぜか、裏道を歩いていると、偶然そのお寺に遭った。
裏道・・・というのは、お寺の前の道路だったのだ。
怖いとかいう話じゃない。あくまでも偶然。
そこで、私ははじめてお坊さんへの偏見を捨てることができた。
そのくらい真面目に親切に接してくれた。
そもそも・・・17時を過ぎていたのだw
本来なら、門を閉められても仕方がない時間。
でも、ごくごく普通に詳しく説明をしてくれた。
説明することが、自分の修行であるかのように。
あるいは、伝えるということが、自分の生涯をかけた
修行であるかのように。
そのお坊さんは、静かに説明を続けた。
彼は下調べで知っていたかもしれないが、私は全く知らなかった話。
まるで、空の123便のようで、はじめてそこで知った私には
かなり衝撃的だった。
「本堂に並べられて。。。。」
「あそこのつつじは・・・」
一人亡くなっても悲しい。100人亡くなっても、やはり悲しい。
でも、本来、怖いと変換されるものではないはずだ。
そういう怖いとされそうなものを、ここで引き受けたのかもしれない。
稲荷巡りをしていて、思う。
そりゃ、私は確かに霊なんか感じない人間だ。
でも、感じないからこそ、思える。
怖い、と思うのもやはり人間の個人のココロの見せるもの。
生きている人間よりも死んだ人間の方が絶対に多いのだから
今以降、みーんな怖がって暮らさなくてはならないw
よく考えると、今生きている人間は、全員、過去の人間の
子孫なわけだ。
子孫が苦しむことを願う人間・・・というか、祖先が子孫を
苦しめる霊、というのは、少なくとも日本ではあまりない。
2代前のAさんも、10代前では、私と同じ祖先だったり
するわけだ。
傷つけあうなら、それは霊のせいではないはずだ。
霊が見える、という人がいるのなら、それはそれで否定するつもりもないが
少なくともいまだに私には見えない。
そして、見えるのなら、10代前の人が、子孫同士が争って喜ぶはずがない。
・・・あ、否定しちゃったか?w
スミマセンw
とにかく、怖がることでもなく、人間はみんな子孫なのだ、と思えばいい
のではないだろうか、言葉が通じなくても。
死とか命とか、先祖とか子孫とか
普段は考えないようなことも、考えさせてくれた。
めったに名前を載せないが、あえて今回は載せたい。
「浄正寺」三河島のあたり。
ここのお坊さんは、今でもちゃんと修行をしている。
事故の様子を伝えることも、つらいだろうけれど
修行だったのだろう。
無知の私のようなものへの説明・広めること、も修行なのだろう。
そして、お坊さん嫌いの私でも、感銘を受けた。
熱心さが伝わってくるのだ。
17時で閉められるはずの門。
私たちが説明を受けはじめたのは、17時16分だった。
事故の詳細はウィキで調べてくださいな。
実は、今日、出かける前に、彼は
「ちょっと寄りたいところがあるんだ」と言っていた。
でも、そのお寺のことじゃなく、事故現場のことだったはずだ。
なのに、なぜか、裏道を歩いていると、偶然そのお寺に遭った。
裏道・・・というのは、お寺の前の道路だったのだ。
怖いとかいう話じゃない。あくまでも偶然。
そこで、私ははじめてお坊さんへの偏見を捨てることができた。
そのくらい真面目に親切に接してくれた。
そもそも・・・17時を過ぎていたのだw
本来なら、門を閉められても仕方がない時間。
でも、ごくごく普通に詳しく説明をしてくれた。
説明することが、自分の修行であるかのように。
あるいは、伝えるということが、自分の生涯をかけた
修行であるかのように。
そのお坊さんは、静かに説明を続けた。
彼は下調べで知っていたかもしれないが、私は全く知らなかった話。
まるで、空の123便のようで、はじめてそこで知った私には
かなり衝撃的だった。
「本堂に並べられて。。。。」
「あそこのつつじは・・・」
一人亡くなっても悲しい。100人亡くなっても、やはり悲しい。
でも、本来、怖いと変換されるものではないはずだ。
そういう怖いとされそうなものを、ここで引き受けたのかもしれない。
稲荷巡りをしていて、思う。
そりゃ、私は確かに霊なんか感じない人間だ。
でも、感じないからこそ、思える。
怖い、と思うのもやはり人間の個人のココロの見せるもの。
生きている人間よりも死んだ人間の方が絶対に多いのだから
今以降、みーんな怖がって暮らさなくてはならないw
よく考えると、今生きている人間は、全員、過去の人間の
子孫なわけだ。
子孫が苦しむことを願う人間・・・というか、祖先が子孫を
苦しめる霊、というのは、少なくとも日本ではあまりない。
2代前のAさんも、10代前では、私と同じ祖先だったり
するわけだ。
傷つけあうなら、それは霊のせいではないはずだ。
霊が見える、という人がいるのなら、それはそれで否定するつもりもないが
少なくともいまだに私には見えない。
そして、見えるのなら、10代前の人が、子孫同士が争って喜ぶはずがない。
・・・あ、否定しちゃったか?w
スミマセンw
とにかく、怖がることでもなく、人間はみんな子孫なのだ、と思えばいい
のではないだろうか、言葉が通じなくても。
死とか命とか、先祖とか子孫とか
普段は考えないようなことも、考えさせてくれた。
めったに名前を載せないが、あえて今回は載せたい。
「浄正寺」三河島のあたり。
ここのお坊さんは、今でもちゃんと修行をしている。
事故の様子を伝えることも、つらいだろうけれど
修行だったのだろう。
無知の私のようなものへの説明・広めること、も修行なのだろう。
そして、お坊さん嫌いの私でも、感銘を受けた。
熱心さが伝わってくるのだ。
17時で閉められるはずの門。
私たちが説明を受けはじめたのは、17時16分だった。
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